昭和47年3月31日 朝の御理解
中村良一
御理解 第75節
「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」
生かすとか、殺すとかと、んー、いうこと、これだけではなくて、まあ、教祖の神様の、この御理解は、えー、何を、分からせようとなさっておるかと言うと、天地の中にある働き、ね。天地の中にある働きの中には、んー、「天網恢々疎にして漏らさず」という言葉がありますが、あー、その事を、ここでは、教えようとなさっておられるんだと思いますね。だから、殺すといったような、ひどい言葉を使っておられますけれども、これは、殺すというだけではなくて、傷つけるという事だって同じことだと思うです。ね。例えば、どういう些細なことであってもです。ね。えー、いわゆる、神様が見ておいでである、聞いておいでである。しかも、見ておいでであるから、聞いておいでであるから、ね。傷つけたり、殺したりというような事に対するところの、まあ、報いとでも申しますか。ね。ちゃんと、おー、神様の、いうならば、あー、ま、手帳に控えなさるならば、神様の手帳には、ちゃんと控えてあるということ。だから、それとは反対に、生かす働きというか、ね。ま、良いこと悪いことといってもよいでしょう。悪いことも、いちいち神様が、お聞き済みならば、ね。いうなら、良いことも、いちいち神様が、それを見ておいでになるのであり、聞いておいでになるのであり、だから、見ておいでだけではない。聞いておいでられるだけではない。それこそ、「天網恢々疎にして漏らさず」というような、あー、働きがあるということを、ここでは教えておられると思います。ね。ですから、ここでは、如何に私共がね、信心するものは、何事にも信心になれよと仰るが、本当に信心にならせて頂かなければならないか。また、それを信じての生活が、私は信心生活と思う。「十の良い事をするより、一つの悪いことをするな」と、四神様、二代金光様は、あの、教えられていることですね。十の良い事をするよりか、一つの悪いことをしないほうが良いというわけです。まあ、勿論、その良い事は、悪いことのけじめというか、見解というのはまた、実にまた、難しいのです。悪いことと思うておることが、さほど悪いことではなくて、ね。これは良いことだと思っておることが、良いことどころか、かえって、えー、悪いことであるといったような場合もあるのです。そこに、やはり、信心が、いわゆる、教えを頂かなければ分からんのです。自分はもう、おー、悪いことはせん、正直もんだから。と、言うておっても、結局、正直者が馬鹿を見るといったような答えしか出てこないとするならばです。それは、正直が正直になっとらんのであり、ね。悪いことをしよらんということが、ひょっとすると、自分の良い事をしよると思うことが、神様の言いよる、ここでいうなら、機感にかなわないことであるかも分からんのです。ね。だから、信心をしなければ分からんのです。信心すると言うても、本当に、真の信心をし、真の教え、心の教え、ね。そして、本当に神様の心が分からなければ出けんのです。神様の心が分からなければ、本当の正直も行えないし、ね。えー、良いことというのも、本当に良いことか、悪いことすらも分からない。ただ、人間の考えで、良いこと悪いことは決められないことが沢山ある。
えー、夕べ、もう、やんがて十二時という頃でした。昨日、マルショウの方たちが、ここで、色々と、今日の準備をしておりましたから、まあ、起きておったわけですけれども、あのー、親先生にお会いしたいと言うて、夫婦で参っておられるところを、遠方から参ってきておられる。わざわざ、もう、思い余って参って来ておられるわけです。それでもう、お広前、灯を落としておりましたから、えー、応接に通ってもらって、それであちらで話を聞かせて頂いた。まあ、色々と深刻な問題がありますけれども、まあ、これは、ちょっとはばかることですから、まあ、申しませんけれども、そのなかに、こういうようなお話がありました。自分は、あー、ある店に、もう長い間勤めておるということです。ね。その店のために、ま、誠心誠意、働かせて頂いておるけれども、それが一つも、こう認められない。そこで、まあこの辺で一つ切りをつけてです。ね。認めておるという印にですね。少しその、まあ店の業績でも上がったら、それに対して、えー、ま、給料でも余分に、えー、貰いたいとこういうわけなのですね。でなかったら、自分は、これだけ一生懸命にやっておるのに、認められておるか、認められていないか分からんのだと。ね。認めて欲しいわけなんです。認めてもらったら、その働きを、それだけの事をしておるのだから、その印に、給料を、別の手当てを、まあ受けたいと。まあ、後先に、色んな事情の、いろんなあってるようでしたけれども、私は、その辺のことを、(咳き込まれる)聞かして頂いておりましたらね。真っ白い、真っ白い紙で、こう、だるまさんを(頂いた?)。丁度、白の紙ですから、雪のだるまのように見えるんですね。それに、この、真っ黒い、まあ、雪のだるまであるなら、タドンでしょうね。タドンを目の中に、こう入れたというような感じで、紙のだるまに、こう、タドンが、あー、の目が入っておるところを頂いて、もう、私は思いました。もう、信心ちゃ、これだなと思い。昨夜から、その事を思わせて頂いておりましたら、今朝頂くのが、こうして、七十五節ですから、だからその、今日、七十五節の、この文句というか、その軸に対するご理解ではなくて、この七十五節というのは、ね。教祖の神様。ここでどういう事を言おうとしておられるかということはです。ね。良い事をすれば良い報い、わるいことをすりゃ悪い報い。もうそれこそ、ね。鼠一匹だって逃すことのない。そういう、天には天網、そういう網があって、もうどういう、それこそ水も漏らさん仕組みに、天地の中には、そういう仕組みがあるんだから、いよいよ、天地の心を分からせてもらい。天地の法則とでも申しましょうか、ね。法則を分からせて貰うて、勉強させてもろうて、その法則に従ったいき方をさせて頂くのが、本当なことだという事を、言おうとしておられるわけなんです。ね。神が見ておると仰せられる、どういうことでも。そこでです、いかにもそれは、自分が一生懸命働いて、働いておることが認められないということであっても、幾ら正直にしておることが、正直にしておることを、私はこのくらい正直にしているんだという事を、人に認めてもらわなくってもです。ね。神が見ておると仰る。私が、昨日頂いたお知らせは、んー、あの、雪のだるまのような感じで、紙でしてあるから、紙は神に通ずるとこう思いましたね。だから、問題は、神様の目に止まるものでなからなければいけないという事。だから、勿論、良いこと悪いこと、ね。例えば、悪いことをして、まあ、うまいとこやっておると自分では、例えば、思うておってもです。ちゃーんと、神様の目には止まっているのであるから、自分は、これほど良いことをしよるのに、これだけ正直なことをしよるのにと、誰も認めてくれんと言わんでもです。神様がご承知なのだから。神様が認めて下さるのだから、ね。だから、私は、信心生活とは、神様に認めてもらえる生活と思うね。ね。神様の神の目に止まる、ね。「色は黒うてもタドンのようでも、ね。雪のだるまの目に止まる」という。ね。どんなに、それこそ、もう、タドンのように真っ黒い、苦労をしておってもです。その苦労がです、ね。神様の機感にかのうた苦労なら、神様の機感にかのうた修行なら、ちゃんと神様が、見逃しなさるはずはない。神の、いうなら、雪のだるまの目に止まるようにです。神様の目にそれは留めなさらんはずがない。ね。それが、おかげの元にならんはずがない。または、お徳を受ける元にならんはずがない。それを信じて行う。それを信じて生活をする。信心。それを私は、真の信心生活だと思う。そんなら、信心せんでも良いかと、正直でさえあればと。そこは、また大変な違いがあるわけです。ね。そこんところが、まあ今、申しますように、自分は良いことと思うておることが、正直だと思うておることが、ではない。神の機感にかなわんものであったらいかんのです。ね。そこで、その神の機感にかなう、いうなら、いき方をさせて頂くということ。それを、神様が見ておいでである。ただただ、神様に認められさえすりゃ良い。神様が認めてくださることが有難い。認められておることが、自分のこれに通うてくる。分かる。
昨日、ある教会の先生が、えー、お参りして見えました。もう、そこの県下では、あー、今、一番、焦点になっておる。どうして、あそこの信者だけは、あんなに生き生きしておるだろうかと。大して人数はないけれども、信者がみんな生き生きとしておる。(咳き込まれる) あっちの県下で、信者集会があった。生き生きとした信心をさせて頂こうと。そして、生き生きとした御用をさせて頂こうと。そういうテーマの元に、えー、ある教会の信者が二人選ばれて、お話をすることになり、その話を元にして、反省会をしたり、研修をしようという会合だったらしい。その先生ところの、おー、ご信者さんが選ばれて、お話をさせて頂いた。他の教会のご信者さんが、話されたのがもう、まあ、いうならば、しどろもどろのお話で、ま、がっかりしておるところへ、私共の信者がお話をさせていただきましたが、もう、初めから最後まで、もう、それこそですね、もう本当に、水を打ったような、その、静かな雰囲気の中に、まあ、どうしてあんなお話が出来るだろうかと、先生である私が思うくらいでしたち言う。それを、体験を交えて、えー、合楽で頂くみ教えを交えて、えー、お話を致しましたが、その後の研修会に、もう、なーにも、先生方は言う事がなかった。ただ素晴らしい。ただ素晴らしいことだと。そして、そうでなからなきゃ出来ん。それが本当だという事だけだったと。ね。その人が、最近、体験させて頂いておることの中に、もう、全てのことの中に御の字をつけるという。もう、実感としてです。御導きをさせて頂きました。というような調子らしいですね。お導きをさして頂きましたというのでも、もう、御の字を、とにかく自分が導きよるのじゃない、神様がつこうて下さるという実感が、そこにあるもんですから、御の字をつけなければおられないと。もう、大変なおかげも頂いておる。また、いうなら、びっくりするような御用も出来ておる。話を聞かせていただきましてから、その、所々の話だけれども、私も、ほんなごて、その度々に、それこそ、ひざ(膝を叩きながら)を叩きたいような思いで聞かせていただきました。素晴らしかのう、本当に、いー、月に一回か二回か、あー、私の話を聞いて下さるだけなんだけれど、ね。とにかく、成り行きを大切にするということ、尊ばせていただくということが、こういうおかげに繋がるんだという話を。ね。
余りその人の家が、繁盛するもんですから、その、他の組合から、あー、その、商売を止めなかればならんごたる訴訟を起されてですね。難儀に陥った時の話をなさったそうです。ところがそれは、あの、おー、いうなら、何ですかね、えー、その、公文書偽造して、それをしてあったんだから、とにかく、あの、親先生、私は、ね。もう、とにかく、神様が見ておいでの世界に住むことが信心だと、合楽の先生が言われるのですから、これに対して、どうこうと申しませんち。もう、成り行きを、この時点で有難く受けていきます。そして、お店も止めなかればならないような事だったら止めますち。ギリギリの大詰めにいたときに、それこそ、天と地がひっくり返るようなおかげになったと。そして、その組合の会合で、自分のいき方を話された時にです。あんたが繁盛するはずだと、皆が認めてくれて、そのなかの四、五人が、どうでん、自分もその教会に、三里ぐらい離れているところだそうですけれども、あんたの参りよる、その金光様に、私を連れて参ってくれというほどしの働きになってきておる。もう、普通から言うならば、もう、その、自分を陥れようとした、仇のようなものが、反対に、どころかです、ね。自分を、その、認めてくれるだけでは無くて、私が挿して頂いておる信心に、自分も連れて参ってくれというほどしのことになっておるという事はです。これを皆さん、どう感じられますかち。もう、問題というのは、全然ないのであって、ね。もう、ただ、あるものは、有難い神愛だけしかないのだと話されたそうです。その事は問題にならないち。ね。だからその、問題が、問題と思う、その事を、例えそれは、ね。言い訳をすれば出来るけれどもです。その時点を有難く頂くことだ。御成り行きだとしていただく。御事柄としていただく。そして、結果はもう、神様にお任せしますと。神様が見ておいでの世界に、生活さしてもらうのが信心生活だと、合楽の先生は説かれるのだから、私は、ここのところをです。これに対して、もう、どうこうとは言わんと。そして、(咳をしながら苦しそうに)繁盛しておる、この商売を止めねばならんなら止めますと。そう言う体験発表だった。私が、信心のことで、もし、三十分なり、一時間長くなって、駐車禁止のところに、私が止めておりましても、絶対、捕まりはしませんち言わっしゃったそうです。もう、絶対ですち。ね。私は、神様の御用で、一生懸命お話さしていただき、それはもう、本当に、えー、まー、素晴らしいお話だったとこう言う。前の日までは、なんか声が出らないと言うてお届けしておりましたが、その日、壇上に立ちましたら、もうそれから、隅から隅まで、はっとその、透き通るような声でのお話じゃったち。大体、壇上にでも立って話すような性格の人じゃないんですけどもね。やはり、神様の、おー、に、使われているのであり、合楽で言われておる、合楽の信心を、私共のところにまで、このような風にして、広がっていっておると思うたら、本当に有難いと言うて、お届けがございました。そう言う手立てをしないち言う。どういう事を言われておっても。ね。それを、御成り行きとして頂かせてもらうということ。そこには、普通で言うならば、もうそれこそ、敵同士のようにならなきゃ、一生、あげなことは忘れられんというようなことが、反対にです。ね。その事を通して、御導きが出来るようなお繰り合わせを頂いておるというのである。なるほど、そういう話でも、本当に、真っ向から拍手喝采だったろうとこう思います。ね。そこでです、私が、ほんなら申します。ね。これが良いことか、悪いことかという、実を言うたら、そのけじめが、実は、私共では分からんのだと。そこでね、一番、間違いのない頂き方、いき方というのが、そこに、はっきりしてこないといかんわけです。ただ、正直さえしときゃ良か、悪いことさえせにゃ良か、ということだけではいけんと言うこと。ね。間違いのないいき方。いよいよ神様が、良い意味合いにおいて認めてくださることの出来るいき方というのは、どういう事かと言うとです。天然地念ということです。天然のねんは、自然の然という字。天然。ね。地念というのは、地に念ずるということ。大地にね、地に念ずるということ。天然地念。ね。
今、その、ご信者さんのお話を聞いていただきましたように、それがもう、本当に、自分が、あー、その、地に落ちなけれがならないようなことをです。根も葉もないことから、でっち上げられたような事柄であってもです。自然に起きて来たことだから、それを、御成り行きとして、天然のものとして、神様の御働きとして、それを受けて、地に念ずるという事は、ね。もう、信心はこれに極まったということなんです。地というじは、土偏に也という字が書いてあるね。土偏に也。これは、もう信心は、これに極まったという意味なんです。ね。だから、そうして念ずる。地に念、御祈念の念です。ね。このいき方からがです。良しもなけれ、その、良し悪し分からないような、例えば、事柄であってもです。ね。必ず、神の機感にかなう、いわゆる、頂き方という事になるのです。そして、自他共に助かっていく。問題というものは、もう問題ではない。いわゆる、神愛だと分からして頂けれる。ね。神愛だと感じられる、例えば、事柄を、神愛として受ける、その事がです。ね。いちっばん、間違いのないいき方なのです。正直、不正直、ね。善、不善。良いこと、悪いこと。というのは、私共の考えでは分からない。ね。ただ、勿論、その場合、こうすることが信心だという事をさして頂くのですけれども、ほんなら、こうすることが信心だという事は、ほんなら、どういうことか。いわゆる、天然地念である。ね。
昨夜、私が遅く、お取次ぎをさせて頂いた、その夫婦の方たちにもです。ね。最後に申しました。とにかく、あなたが、私の意見を、例えば、このような中に、聞こうと言われても、私は、人間心では、私は、人間心で言えば、あの、こうこうだと、あなたが思うておられるところに、えー、落着するでしょう、お話が。けれども、私はどこまでも、私の人間心では、あー、あなたのご相談には乗らんのですから、どこまでも、神様の知恵、ね。神様の知恵を持って、あなたにお答えをするのですから、私が言うとおりにしとけば、絶対、おかげになると。今は、馬鹿らしいごとある。認められとらんごたるけれども、ね。だから、信心とはね、神に認められる、ね。神様から認められる。人から認められんでも良いじゃないですか。神様から認められることによって、そこからです、思いもかけない、とてもとても、給料を幾ら幾ら上げて貰うたぐらいのことではない、おかげに展開してくるのですから。まあ、問題は、信心をなさらなければいけません。そして、人から認められる、主人から認められるじゃなくて、神様に認められる、あなたにならせて頂く事を、んー、これからの願いになさらなければいけません。先生の話しを聞いとったら腹が決まりました。夫婦のものが、本当に来て、こんなに遅うからでしたけれども、本当、お参りさしていただいて良かったですねと言うて喜んで帰られた。ね。信心させていただいておっても、そこが分からん。神様に認められさえすりゃ良いんだ。色んな意味において、ね。信心しよって、こんくらいのこつは良か良かち言うて、言うておる。それが、例えば、鼠一匹のような事であっても、天網恢々疎にして漏らすことのない、天地には仕組みがあるのだ。ね。人間なら、見逃すとか、または、見落ちというのがあるけれども、神様は、絶対、見落としなどなさらんのだ。ね。そういう、一つの観念の元に、私共が、あー、信心生活させて貰う。そして、ほんなら、神の機感にかなうとか、かなわんとかというところをです。ね。いよいよ、極めて行くことのために信心の稽古がいる。その、一番間違いのないいき方の中に、天然地念と言う頂き方、ね。これなら絶対のものである。という事を、今日、聞いていただいたね。七十五節を、は、今日は、これに対する、ここの軸に対するご理解ではなくて、この精神です、ね。その心というのは、ね。「天網恢々疎にして漏らさず」というのが、あー、天地の中に、そういう仕組みがあるのだから、ね。心で殺せば、やはりまた、心で殺されることになってくるんだから、と言う意味の事を、おー、教えておられると思いましてね。えー、ま、聞いていただいたわけです。この、天然地念という事は、もう、二十年ぐらい前に頂いたご理解です。けども、今日、また改めていただきましたから、もう一遍、改めてですね、昨日、その、体験、その○○教会のご信者さんの話を致しましたが、ね。そういういき方、頂き方、そういう信者が、段々出来てくるんです。そこではね、最近、十三日会を開かせていただいておりますち言う。もう、それこそ、まあ私共の教会の、生き生きした連中ばかりが集まってまいりまして、大変有難い会合になっていきよります。昨日のご理解を頂かせていただいて、本当に合楽流にならにゃいけんという事を、しみじみ感ずる。そこの教会は、お月次祭が三回である。ここは四回。そこで、私のほうも、ただ、あの、私は、あの、お月次祭は何時ですかって、こう聞いたら、三回というから、どうしてですかというたら、あー、桂先生の流れのところだけですね、四回というのは。四神様のお祭りというのがあります。ここの十八日で。だから、そこは、十日から二十二日が、ちょっと長すぎるきん、なかにその、まー一回、報徳祭を入れなさったらどうですかち。四回、これはもうね、えー、デパートあたりで言うよりも、大売出しはどういう名目付けちからでん良かけんで、あの、大売出しをせろと言われとる。これはもう商売のこつです。ほんなら、合楽の、合楽のじゃない、御道の信心の、はー、金光様の信心な、お祭りが多すぎると言うけれども、私は、まあだ多いが本当は良いと思う。毎日がお祭りでん良かぐらいなこと。ね。皆が、祭りの気持ちで、本当におかげ頂いたら、みなが、みんなが力を受けることであり、おかげを受けることなんだから。ね。と言いましたら、そんならもう早速、四回にさして頂きましょう。問題はないですもんね。信者に、ただ、合楽の親先生はそう仰ったから、合楽流になっただけだと言や、いいですからねと言うて、昨日、言っておられましたがね。ね。いうならば、合楽流という事は、本当言うたら、合楽流ではなくてね。まあ、何ち言うでしょうかね、教祖金光大神流であろう。ね。いうならば、天地流であろうと、私は思うです。ね。何時も天地がバック。今日の、その方の話もですね。もう、神様が、何時も、身近にね、働き通しに働いてござるという働き、その、例をね、自分の信心体験から話されたち言う。もう、神様が生き生きとして、その信者氏子の為に働いておられるという、ね。それで、その教会に、ああいう信者がどうして生き生きとした、その、おー、信心が出来るかと言うようなことが、みんなの、まあ、ある意味での興味の的であったと、言うような事でございますけれども、ね。こうして、朝晩、ここで私の話を聞いてくださる皆さんの事でございますから、ね。もっともっと、本当に、御事柄の御の字にですね、力が入れられるほどしの、いわば、日常生活を頂きたいですね。どうぞ。